こんにちは、ふっちんです😊
「私らしい働き方を探して」、第2話です。
前回は、長い専業主婦期間を経て、再就職が決まったところまでをお話ししました。

今回は、そのあと実際に、どんな働き方をしていたのかを書いてみます。
先に言っておきますね。わりとしんどい話です。
でも最後まで読んでいただけるように、ところどころに、当時の私のささやかな夢の話も挟んでおきます。よかったらお付き合いください🍀
私の仕事は、貿易事務でした
入社したのは、通信販売の会社の貿易部門でした。当時、私は30代後半でした。
私が担当したのは、主に輸入まわりの事務です。
海外の取引先とのやり取りは、メールかファックス。それに加えて、社内の関係部署との調整、倉庫への連絡、フォワーダーさん(輸出入の輸送手配をしてくれる専門の業者さんです)とのやり取りもありました。
商品そのものに直接関わることは、ほとんどありません。届いた書類を見ながら、パソコンに入力していくのが主な仕事でした。
「貿易」と聞くと海外を飛び回るイメージがあるかもしれませんが、実際の私は、ずっと同じ椅子に座っていました。
ただ、当時はとても景気が良かったのか、取り扱う量がとにかく多くて。閑散期以外は、ずっと残業がありました。
上司も厳しい人でした。ヘトヘトになる日も多かったです。
それでも「娘たちを大学に出すまでは」と思って、続けていました。
当時の私の一日
文章で「忙しかった」と書いてもうまく伝わらない気がするので、当時のスケジュールをそのまま書いてみます。
| 時刻 | やっていたこと |
|---|---|
| 5:00 | 起床/玄関とトイレの掃除 |
| シャワー、着替え、洗濯機を回す | |
| 6:00 | お弁当作り、朝食作り |
| 7:00 | 夫を駅まで送る/洗濯機2回目/ゴミ捨て |
| 8:00 | 洗濯物を干す、掃除機、朝食 |
| 8:30 | 出勤(徒歩) |
| 9:30〜16:30 | 仕事(定時で帰れるのは、真冬と真夏の閑散期だけ) |
| 9:30〜21:00前後 | 仕事(繁忙期) |
| 22:00 | 帰宅、晩ごはん、片付け |
| 23:00 | スーパーへ買い物 |
| 23:30 | 翌日の晩ごはんの仕込み |
| 25:00 | 就寝 |
定時で帰れるのは、真冬と真夏の、ほぼ2月と8月ごろだけでした。
つまり、それ以外の月は、21時前後まで仕事です。
……こうして表にしてみると、なかなかの圧がありますね。
「我ながら、よう回してたな…」
朝7時から8時半までの1時間半に、送迎・洗濯2回目・ゴミ捨て・洗濯物干し・掃除機・朝食が詰まっています。今の私が同じことをやれと言われたら、たぶん8時半の時点で力尽きています。
6人家族の食事は、すべて私が
当時は6人家族でした。私は長男の嫁という立場で、家族全員分の食事を毎日作っていました。
お惣菜や冷凍食品を出すと、義母や義妹から嫌味を言われます。だから手抜きはできませんでした。
そして何より苦痛だったのが、毎日の献立作りです。
作るものについて、家族の好みは見事にバラバラでした。
- 味付けの薄い和食が食べたい、義母と義妹
- 味付けの濃いものが食べたい、夫
- グラタンなどの洋食が食べたい、娘たち
……もうお分かりですよね。
「じゃあ、何作ったら正解なん?」
何を作っても、誰かの好みには合わない。正解のないクイズを、毎日出題されているようなものでした。
21時まで働いて、22時に帰って、そこから晩ごはんを食べて片付けて。それからスーパーへ買い出しに行って、帰ってきたら翌日の晩ごはんの仕込み。しかもその献立に、正解はない。そういう毎日です。
今の時代なら「それはさすがにおかしい」と言ってもらえたのかもしれません。
でもあの頃は、誰も私の味方はいませんでした。当時の私にとっては、それが当たり前でした。
23時にスーパーへ行っていた理由
「なぜ23時に買い物?」と思われたかもしれません。
週末にまとめ買いはしていました。でも6人分となると、そもそも冷蔵庫に入りきらないんです。どうしても平日に、買い足すしかありませんでした。
幸い、家から車で5分のところに、24時間営業のマックスバリュがありました。あのお店があったから、あの時間に買い物ができたんです。
深夜のスーパーで、翌日の献立を考えながらカゴを持っている自分。今思い出すと、ちょっとした修行のようです。
ちなみに今、そのお店の営業時間は、朝8時から夜11時に変わりました。
あの頃の生活は、もう同じようにはできないんだなと思います。
送迎のこと
私の家は、山の中にあります。だから車がないと、移動が大変な場所でした。
夫は毎朝、駅まで車で送っていました。夜も迎えに行きます。夫はお酒を飲む人だったので、早く帰ってきた日でも、迎えに来てくれることはありませんでした。
家族の中で、お酒を飲まないのは私だけでした。飲めないというだけで、なぜか送迎係が固定されるんですね。
娘たちの塾や習い事の送迎もありました。さすがに繁忙期の平日は無理でしたが、繁忙期以外の夜や、たまたま早く帰れた日は、迎えに行っていました。夜道は危ないですから。
そして私は、最寄り駅まで歩いて通勤していました。
有給休暇は、毎年捨てていました
会社の規定そのものは、きちんとしていました。有給休暇もちゃんとあります。
でも、忙しすぎて取れないんです。結局、毎年そのまま捨てていました。
平日は、とにかく休みにくい空気がありました。
特に、子どもの予定では、休みを言い出しづらい環境でした。
あるとき、娘の家庭訪問の日に、残業を2時間だけして帰ろうとしたことがあります。定時ではなく、「2時間残業してから帰る」——それでも、いい顔はされませんでした。
子どもの塾代や学費のために働いているのに、その子どものことで帰れない。
私は一体、何のために働いているんやろう。
そう思ったことが、何度もありました。
当時の私の夢は「慎吾ママ」でした
こんな毎日でしたから、当時の私には、ささやかな夢がありました。
慎吾ママに、うちに来てもらうことです。
朝、目覚まし時計を止めてもらって、そのままゆっくり寝る。起きたらお弁当ができていて、家族はもう駅まで送ってもらっている。
……それだけです。
ハワイ旅行でも宝くじでもなく、「ゆっくり寝たい」と「送迎を代わってほしい」の2つだけ。我ながら、ずいぶんささやかな夢だったなと思います。
でも、当時の私にとっては、それが一番の贅沢でした。
それでも続けられた理由
何のために働いているんやろう——そう思いながらも、私は辞めませんでした。
今振り返ると、なぜあれで倒れなかったのかと思います。
1年365日、休む間もありませんでした。職場も家庭も、今の言葉でいえば「超絶ブラック」です。
たぶん、目標がはっきりしていたからです。
「娘たちを大学に出すまで」
それだけを考えて、走っていました。先のことは、あまり考えていなかったように思います。というより、考える余裕がなかった、というほうが正確かもしれません。
終わりの数年、風向きが変わりました
そんな毎日にも、少しずつ変化が訪れます。
あるとき、会社で「働き方改革」が始まりました。残業はなるべくしないように、というお達しが出たんです。
それまでは、早く帰ることが悪。それが、残業を減らすことが善に変わりました。
あの厳しかった上司も、コロッと態度が変わりました。
「時代が変わると、正解も変わるんやなぁ」
ちょうど異動の1年ほど前からは、輸入の商品自体も少しずつ減ってきて、定時近くで帰れる日が増えていました。
もちろん、業務の途中で帰ることはありません。定時になったら社員さんが引き継いでくれる——なんて夢のようなことは、ありませんでしたから。自分の仕事は、きっちり終わらせてから帰ります。
13年目、社内で異動になりました
そんな日々が13年ほど続いたころ、社内で異動がありました。
ちょうど同じ時期に、家庭のほうも大きく変わりました。
義妹が近くの家に引っ越し、長女は社会人になって一人暮らしを始め、次女は海外留学へ。
あんなに大変だった6人分の食事が、少しずつ減っていったんです。
人数は半分。もう、大人のメニューだけ作っておけばいい。
そう思えたら、すごく気が楽になりました。
冷蔵庫にちゃんと物が収まるようになったのも、地味に嬉しかったです。
そして仕事のほうも、新しい部署へ移ることになりました。
今度は、国内からの仕入れ部門です。
それまでは書類だけを扱う仕事でしたが、今度は商品が入荷する前のチェックなど、実際にモノに触れる仕事が入ってきます。やり取りの相手も、海外ではなく国内のメーカーさんです。
人と話す機会も、モノに触れる機会も、ぐっと増えました。
正直、最初は戸惑いました。でも、これが思いのほか楽しかったんです。
そのお話は、次回に書きたいと思います。
おわりに
最後に、その後のことを少しだけ。
あれから、長い時間が経ちました。
夫は定年退職してから、私を駅まで送り迎えしてくれるようになりました。あんなに毎日送っていたのが、ある日から逆になったんです。
そして3年前に夫が亡くなったあと、娘が電動自転車を買ってきてくれました。しばらくは、朝は私が娘を駅まで送って、帰りは娘が私を迎えに来る。そんな時期がありました。
その娘もお嫁に行き、今は愛犬のひなのとの2人暮らしです🐶
電動自転車は、今は私が往復で使っています。あの頃は歩いていた駅までの同じ道を、今は自転車で走っています。
送り迎えというのは、こうやって形を変えていくものなんですね。
そして、毎日6人分作っていたごはんは、今はひとり分になりました。
食べたいものを、食べたいように作って食べる。それがこんなに幸せなことだとは、あの頃は思ってもみませんでした。
時々、娘家族や母が遊びに来ます。そんな日は、ちょっと張り切って作ります。頑張るのは、その日だけ。
義母は今、ホームで暮らしています。会いに行くとニコニコ笑って、「来てくれてありがとう」と言ってくれます。
あの頃の小言は、もうありません。
義妹からは、こんなことを言われました。
「あの亭主関白の兄の世話をして、お義母さんの世話もして、私の小言にも耐えて。よく家のこと回せてたね」
……いま言うんかい、と思わなくもないですが。
それでも、そう言ってもらえたことで、あの13年間がようやく自分の中で落ち着いた気がしています。
だから、こうして書けるようになったのかもしれません。
慎吾ママは、結局最後まで来てくれませんでしたけどね😊


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