私らしい働き方を探して②🌱|睡眠4時間で走った日々、当時の夢は「慎吾ママ」でした

夜明け前の台所でお弁当を作る女性の後ろ姿の水彩イラスト。窓の外は薄暗い群青色、台所の灯りだけが温かい。「睡眠4時間で走った日々|私らしい働き方を探して②」の文字入り 働き方

こんにちは、ふっちんです😊

「私らしい働き方を探して」、第2話です。

前回は、長い専業主婦期間を経て、再就職が決まったところまでをお話ししました。

私らしい働き方を探して①🌱|長い専業主婦から、もう一度働きたいと思った日
長い専業主婦生活を経て、もう一度「働きたい」と思った日のこと。ハローワークではご縁がなく落ち込みましたが、諦めずに再就職できた体験談です。再就職に一歩踏み出せない方へ、50代の私の歩みが届きますように。

今回は、そのあと実際に、どんな働き方をしていたのかを書いてみます。

先に言っておきますね。わりとしんどい話です。

でも最後まで読んでいただけるように、ところどころに、当時の私のささやかな夢の話も挟んでおきます。よかったらお付き合いください🍀

私の仕事は、貿易事務でした

入社したのは、通信販売の会社の貿易部門でした。当時、私は30代後半でした。

私が担当したのは、主に輸入まわりの事務です。

海外の取引先とのやり取りは、メールかファックス。それに加えて、社内の関係部署との調整、倉庫への連絡、フォワーダーさん(輸出入の輸送手配をしてくれる専門の業者さんです)とのやり取りもありました。

商品そのものに直接関わることは、ほとんどありません。届いた書類を見ながら、パソコンに入力していくのが主な仕事でした。

「貿易」と聞くと海外を飛び回るイメージがあるかもしれませんが、実際の私は、ずっと同じ椅子に座っていました。

ただ、当時はとても景気が良かったのか、取り扱う量がとにかく多くて。閑散期以外は、ずっと残業がありました。

上司も厳しい人でした。ヘトヘトになる日も多かったです。

それでも「娘たちを大学に出すまでは」と思って、続けていました。

当時の私の一日

文章で「忙しかった」と書いてもうまく伝わらない気がするので、当時のスケジュールをそのまま書いてみます。

時刻やっていたこと
5:00起床/玄関とトイレの掃除
シャワー、着替え、洗濯機を回す
6:00お弁当作り、朝食作り
7:00夫を駅まで送る/洗濯機2回目/ゴミ捨て
8:00洗濯物を干す、掃除機、朝食
8:30出勤(徒歩)
9:30〜16:30仕事(定時で帰れるのは、真冬と真夏の閑散期だけ)
9:30〜21:00前後仕事(繁忙期)
22:00帰宅、晩ごはん、片付け
23:00スーパーへ買い物
23:30翌日の晩ごはんの仕込み
25:00就寝

定時で帰れるのは、真冬と真夏の、ほぼ2月と8月ごろだけでした。

つまり、それ以外の月は、21時前後まで仕事です。

……こうして表にしてみると、なかなかの圧がありますね。

「我ながら、よう回してたな…」

朝7時から8時半までの1時間半に、送迎・洗濯2回目・ゴミ捨て・洗濯物干し・掃除機・朝食が詰まっています。今の私が同じことをやれと言われたら、たぶん8時半の時点で力尽きています。

6人家族の食事は、すべて私が

当時は6人家族でした。私は長男の嫁という立場で、家族全員分の食事を毎日作っていました。

お惣菜や冷凍食品を出すと、義母や義妹から嫌味を言われます。だから手抜きはできませんでした。

そして何より苦痛だったのが、毎日の献立作りです。

作るものについて、家族の好みは見事にバラバラでした。

  • 味付けの薄い和食が食べたい、義母と義妹
  • 味付けの濃いものが食べたい、夫
  • グラタンなどの洋食が食べたい、娘たち

……もうお分かりですよね。

「じゃあ、何作ったら正解なん?」

何を作っても、誰かの好みには合わない。正解のないクイズを、毎日出題されているようなものでした。

21時まで働いて、22時に帰って、そこから晩ごはんを食べて片付けて。それからスーパーへ買い出しに行って、帰ってきたら翌日の晩ごはんの仕込み。しかもその献立に、正解はない。そういう毎日です。

今の時代なら「それはさすがにおかしい」と言ってもらえたのかもしれません。

でもあの頃は、誰も私の味方はいませんでした。当時の私にとっては、それが当たり前でした。

23時にスーパーへ行っていた理由

「なぜ23時に買い物?」と思われたかもしれません。

週末にまとめ買いはしていました。でも6人分となると、そもそも冷蔵庫に入りきらないんです。どうしても平日に、買い足すしかありませんでした。

幸い、家から車で5分のところに、24時間営業のマックスバリュがありました。あのお店があったから、あの時間に買い物ができたんです。

深夜のスーパーで、翌日の献立を考えながらカゴを持っている自分。今思い出すと、ちょっとした修行のようです。

ちなみに今、そのお店の営業時間は、朝8時から夜11時に変わりました。

あの頃の生活は、もう同じようにはできないんだなと思います。

送迎のこと

私の家は、山の中にあります。だから車がないと、移動が大変な場所でした。

夫は毎朝、駅まで車で送っていました。夜も迎えに行きます。夫はお酒を飲む人だったので、早く帰ってきた日でも、迎えに来てくれることはありませんでした。

家族の中で、お酒を飲まないのは私だけでした。飲めないというだけで、なぜか送迎係が固定されるんですね。

娘たちの塾や習い事の送迎もありました。さすがに繁忙期の平日は無理でしたが、繁忙期以外の夜や、たまたま早く帰れた日は、迎えに行っていました。夜道は危ないですから。

そして私は、最寄り駅まで歩いて通勤していました。

有給休暇は、毎年捨てていました

会社の規定そのものは、きちんとしていました。有給休暇もちゃんとあります。

でも、忙しすぎて取れないんです。結局、毎年そのまま捨てていました。

平日は、とにかく休みにくい空気がありました。

特に、子どもの予定では、休みを言い出しづらい環境でした。

あるとき、娘の家庭訪問の日に、残業を2時間だけして帰ろうとしたことがあります。定時ではなく、「2時間残業してから帰る」——それでも、いい顔はされませんでした。

子どもの塾代や学費のために働いているのに、その子どものことで帰れない。

私は一体、何のために働いているんやろう。

そう思ったことが、何度もありました。

当時の私の夢は「慎吾ママ」でした

こんな毎日でしたから、当時の私には、ささやかな夢がありました。

慎吾ママに、うちに来てもらうことです。

朝、目覚まし時計を止めてもらって、そのままゆっくり寝る。起きたらお弁当ができていて、家族はもう駅まで送ってもらっている。

……それだけです。

ハワイ旅行でも宝くじでもなく、「ゆっくり寝たい」と「送迎を代わってほしい」の2つだけ。我ながら、ずいぶんささやかな夢だったなと思います。

でも、当時の私にとっては、それが一番の贅沢でした。

それでも続けられた理由

何のために働いているんやろう——そう思いながらも、私は辞めませんでした。

今振り返ると、なぜあれで倒れなかったのかと思います。

1年365日、休む間もありませんでした。職場も家庭も、今の言葉でいえば「超絶ブラック」です。

たぶん、目標がはっきりしていたからです。

「娘たちを大学に出すまで」

それだけを考えて、走っていました。先のことは、あまり考えていなかったように思います。というより、考える余裕がなかった、というほうが正確かもしれません。

終わりの数年、風向きが変わりました

そんな毎日にも、少しずつ変化が訪れます。

あるとき、会社で「働き方改革」が始まりました。残業はなるべくしないように、というお達しが出たんです。

それまでは、早く帰ることが悪。それが、残業を減らすことが善に変わりました。

あの厳しかった上司も、コロッと態度が変わりました。

「時代が変わると、正解も変わるんやなぁ」

ちょうど異動の1年ほど前からは、輸入の商品自体も少しずつ減ってきて、定時近くで帰れる日が増えていました。

もちろん、業務の途中で帰ることはありません。定時になったら社員さんが引き継いでくれる——なんて夢のようなことは、ありませんでしたから。自分の仕事は、きっちり終わらせてから帰ります。

13年目、社内で異動になりました

そんな日々が13年ほど続いたころ、社内で異動がありました。

ちょうど同じ時期に、家庭のほうも大きく変わりました。

義妹が近くの家に引っ越し、長女は社会人になって一人暮らしを始め、次女は海外留学へ。

あんなに大変だった6人分の食事が、少しずつ減っていったんです。

人数は半分。もう、大人のメニューだけ作っておけばいい。

そう思えたら、すごく気が楽になりました。

冷蔵庫にちゃんと物が収まるようになったのも、地味に嬉しかったです。

そして仕事のほうも、新しい部署へ移ることになりました。

今度は、国内からの仕入れ部門です。

それまでは書類だけを扱う仕事でしたが、今度は商品が入荷する前のチェックなど、実際にモノに触れる仕事が入ってきます。やり取りの相手も、海外ではなく国内のメーカーさんです。

人と話す機会も、モノに触れる機会も、ぐっと増えました。

正直、最初は戸惑いました。でも、これが思いのほか楽しかったんです。

そのお話は、次回に書きたいと思います。

おわりに

最後に、その後のことを少しだけ。

あれから、長い時間が経ちました。

夫は定年退職してから、私を駅まで送り迎えしてくれるようになりました。あんなに毎日送っていたのが、ある日から逆になったんです。

そして3年前に夫が亡くなったあと、娘が電動自転車を買ってきてくれました。しばらくは、朝は私が娘を駅まで送って、帰りは娘が私を迎えに来る。そんな時期がありました。

その娘もお嫁に行き、今は愛犬のひなのとの2人暮らしです🐶

電動自転車は、今は私が往復で使っています。あの頃は歩いていた駅までの同じ道を、今は自転車で走っています。

送り迎えというのは、こうやって形を変えていくものなんですね。

そして、毎日6人分作っていたごはんは、今はひとり分になりました。

食べたいものを、食べたいように作って食べる。それがこんなに幸せなことだとは、あの頃は思ってもみませんでした。

時々、娘家族や母が遊びに来ます。そんな日は、ちょっと張り切って作ります。頑張るのは、その日だけ。

義母は今、ホームで暮らしています。会いに行くとニコニコ笑って、「来てくれてありがとう」と言ってくれます。

あの頃の小言は、もうありません。

義妹からは、こんなことを言われました。

「あの亭主関白の兄の世話をして、お義母さんの世話もして、私の小言にも耐えて。よく家のこと回せてたね」

……いま言うんかい、と思わなくもないですが。

それでも、そう言ってもらえたことで、あの13年間がようやく自分の中で落ち着いた気がしています。

だから、こうして書けるようになったのかもしれません。

慎吾ママは、結局最後まで来てくれませんでしたけどね😊

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